篠ノ井は篠ノ井駅とともに生まれ発展してきた交通都市である。また更級郡の政治の中心として発展してきた政治都市でもあった。明治二十一年(一八八八)の駅開業当時、駅周辺は人家もない農村だった。それが七〇年後の昭和三十四年(一九五九)には近隣の村々を合併して市制を施行するまでに発展をとげている。
戸口の増加には大きな節目が四回あった。第一の発展期は明治三十三年の篠ノ井線の一部開通(篠ノ井-西条間)のころから明治末までの漸増(ぜんぞう)期である。駅開業当初は、列車の運転回数も少なく駅開設の影響は少なかった。明治三十三年、篠ノ井線が開通すると、篠ノ井駅は関東と関西を結ぶ交通上の要衝(ようしょう)となり、列車の運転回数・乗降客・取り扱い貨物量も増えて急速に発展した。町にも活気がみなぎり、明治の末には駅前はもとより駅前通りにも商店が立ちならんだ。
第二の発展期は大正のはじめころから、昭和の初期までの急増期である。この間の急速な戸口増加は、大正二年(一九一三)郡役所が塩崎村の旧篠ノ井から移転してきたことによる。それにともなって各種行政機関・学校などが移転・新設され、篠ノ井は更級郡の政治・経済・文化の中心として急速に発展した。大正末期には篠ノ井町(栄村との合併以前の旧布施村地域)の戸口は稲荷山をぬいて名実ともに郡第一の都市となった。
第三の発展期は太平洋戦争後である。この期の発展は国道一八号(現在の主要地方道長野上田線)沿いを中心に工業化がすすんだことによる。工場とその関連施設・住宅の建設で戸口は増加した。
第四の発展期は昭和四十年代半ばから現在にいたる住宅団地の造成期である。五明区・御幣川などの市街地の周辺部に団地や住宅地がさかんに造成され戸口は急増した。しかし同時に旧中心街の空洞化現象も生じている。