大平塚

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地元でおおびら山とよばれている地区にある。前方後円墳といいつたえられてきたが、昭和五十五年(一九八〇)長野県史編さん事業の一環として調査され、三基の円墳の集合塚と判明した。このときになぜか布施塚古墳として発表された。

 平成七年(一九九五)砂防工事のさい石室の一部が露呈して、長野市教育委員会によって緊急発掘された。盗掘が激しく形状が崩れ、遺物も土師(はじ)・須恵(すえ)の土器片や鏃(やじり)・刀子(とうす)・直刀(ちょくとう)の破片が少し発掘されただけであった。一号墳は木棺直葬(もっかんちょくそう)の主体部をもつ珍しい古墳で、古墳時代中期(五世紀後半)の構築であるとされている。