『吾妻鏡(あずまかがみ)』の文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月乃具未済庄々注文のなかに、石川庄、四宮庄(しのみやしょう)南北につづいて布施本荘(ふせほんしょう)、布施御厨(みくりや)、富部(とべ)御厨の名があげられている。
当時、伊勢神宮に上分料を納入するいっぽう、領家職(りょうけしき)は院司とよばれる上皇の家政職にあたえられている荘園が多いので、布施本荘も院領荘園と伊勢神宮との両属関係にあった荘園と考えられている(『市誌』②)。布施本荘の中心地は、布施高田に布施氏の館跡と伝承されるところがあるので、布施高田・布施五明・御幣川あたりであったと考えられている。
布施御厨は富部御厨と隣接していて、神宮側では両方の御厨をあわせて藤長(ふじなが)御厨として登録している。藤長御厨は、内宮(ないくう)・外宮(げくう)の両社に毎年「上分布五〇端、長日御幣料日別代の布二丈」を貢納していた。布施御厨は山布施から布施、横田にかけての地域という説があるが、地元では小松原・岡田・有旅・入有旅・山布施・安庭(やすにわ)・氷熊・山平林を布施御厨八ヵ郷といい、犀口の布施神社が布施御厨の神明社であると伝承している。