横田城跡

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会(あい)区 治承(じしょう)五年(一一八一)の横田河原(よこたがわら)の戦いで越後の城資職(じょうすけもと)が陣を置き、戦後は木曾義仲(きそよしなか)が北陸攻略の根拠地の一つとした城である。また応永七年(一四〇〇)村上氏や大文字一揆(だいもんじいっき)などの信濃の国人(こくじん)たちが信濃の守護小笠原長秀(ながひで)と戦った大塔合戦(おおとうがっせん)では、長秀がこの城に陣をとり出陣している。川中島の戦いでは武田信玄方の原大隅守(おおすみのかみ)が守っていたといわれている。城跡は南北一八〇メートル、東西二三〇メートルの堀をめぐらした環濠(かんごう)集落である。西半分を宮内(くねうち)、東半分を古町(ふるまち)といい、大和地方の環濠(かんごう)集落によく似た屋敷割りがみられる。宮内にある城の部分は約五五メートル四方で殿屋敷といわれ、ここが本郭(ほんくるわ)である。その西北隅に南北一〇メートル、東西一二メートル、高さ三メートルの土塁が残り、古殿稲荷が祭られている。稲荷社の北には近年まで幅六メートル以上の堀があった。遺跡の南部に「馬出(うまだし)」、東に「土居沢(どいざわ)」の地名が残っている。古代末期から戦国期にいたる館跡(やかたあと)として長野市の指定史跡となっている。