布施高田内堀区 南北一三〇メートル、北辺の東西幅一二〇メートル、中はどの東西幅一一五メートル、南辺の東西幅七〇メートルである。西を正面としたもののようで、西方の中央三三メートルのあいだを除く四方に堀をめぐらせていた。堀は明治初年までは原形が残っていたようで、古老が「旧郵便局北側の堀は幅二間、両岸にマコモが茂っていた。東の堰(せぎ)は堰底が高く、たてをかうと西堰に水が流れた」と語っている。館の周辺の字が佃(つくだ)であり、佃をふくめた周辺を内堀とよぶことから、中世の館跡であることは確かだが、布施氏代々の館という確証はない。
この地方で布施姓を名乗る武士の初見は、一一世紀末の信濃国の国司平正家の甥(おい)、平正弘(市内の高田・市村郷などに所領)の子で、この地に土着した布施惟俊(これとし)である。惟俊の子富部家俊(と(ん)べいえとし)は横田河原合戦で討ち死にしている。
その後滋野(しげの)氏の出で埴科郡英多(あがた)荘の地頭(じとう)平林氏の一族である布施氏が支配している。一五世紀初期の戦記物『永享記(えいきょうき)』に、村上頼清の「家の子」の布施伊豆守の名が出てくる。これがこの館の主と考えられている。
布施氏は一五世紀の後半に有旅へ、さらに上尾(あげお)(信更町)へと本拠を移し平林姓を名乗っている。