篠ノ井地区は中世の変革期にはいずれも大きな戦乱に巻きこまれている。治承(じしょう)五年(一一八一)の横田河原の戦いをはじめ、鎌倉幕府滅亡直後の建武(けんむ)二年(一三三五)、北条氏の再興をはかった中先代(なかせんだい)の乱では篠野井(しののい)河原、四宮(しのみや)河原が戦場となった。正平(しょうへい)六年(一三五一)には足利尊氏(たかうじ)方と直義(ただよし)方が富部原(とんべはら)で戦った。応永七年(一四〇〇)の信濃の守護小笠原長秀と信濃の国人が戦った大塔(おおとう)合戦の戦場にもなった。
戦国時代は村上氏の支配下にあったが、武田信玄の北信進出で村上氏が上杉謙信の助けを求めたことにより、この地方は上杉・武田両軍の相争う川中島合戦の舞台となった。両軍の最初の合戦は布施(ふせ)の戦い(天文(てんぶん)二十二年・一五五三)であった。川中島の戦い以後は武田氏の支配下になった。武田氏の滅亡後織田信長が天下をとると、森長可(ながよし)が海津城に入った。長可が本能寺の変で西上すると上杉景勝(かげかつ)が侵攻してきた。慶長(けいちょう)三年(一五九八)景勝は会津に転封(てんぽう)され、豊臣秀吉は海津城に田丸直昌(ただまさ)、飯山城に関一政を置き、犬山(尾張)城主石川(いしこ)光吉とともに蔵入地(くらいりち)代官とした。同年七月の太閤検地(たいこうけんち)で村々の石高(こくだか)が確定すると、田丸に四万石、関に三万石の村々があたえられ、残りの五万石余は秀吉の蔵入地となった。
慶長五年、森忠政が松代に入封して川中島一三万七五〇〇石を支配した。忠政の在任三ヵ年の主要事業に領内の総検地がある。農民の身分の固定と年貢の増徴を実現して近世的な農民の支配体制をつくりあげた重要な検地であった。六尺一分の間竿(けんざお)を用いる徳川方式でおこなわれ、六尺三寸の太閤検地より一反歩の実面積は小さくなった。そのうえ石盛(こくも)りを一~二斗ずつ引きあげたので、川中島一四万石は一九万石となった(『県史』④)。
忠政のあと家康の六男松平忠輝か松代に封(ほう)ぜられた。忠輝の城代花井吉成は大久保長安の援助をうけて、裾花(すそばな)川の瀬替(せが)えや、犀口三堰(さいぐちさんせぎ)の開削に努力したと伝えられる。忠輝か改易(かいえき)されたあと、松平忠昌、ついで酒井忠勝と領主がかわった。
元和(げんな)八年(一六二二)真田信之(のぶゆき)が上田から移封(いほう)されてきた。以後明治のはじめまで一〇代二百余年のあいだ、真田氏の支配するところとなった。