松代真田藩では上級藩士に地方知行制(じかたちぎょうせい)をとっていた(藩士総数一九〇〇人中二六〇人前後)。
寛文(かんぶん)元年(一六六一)の「幸道家中分限帳(ゆきみちかちゅうぶんげんちょう)」によって篠ノ井地域の知行所の状況をみると、下横田村は海野源左衛門の知行所だけであるが、他の村々は上横田に三人、布施五明(ふせごみょう)に五人、会(あい)に一四人、御幣川(おんべがわ)に一五人、布施高田には二〇人の地頭(じとう)の知行所があった。会の地頭の一四人のうち七人は御用大工職である。
寛文六年の「御幣川村高辻(たかつじ)帳」をみると、一人の農民が一人の地頭に所属するとは限らず、複数の地頭の知行地や蔵入地を耕作しているものが多い。また行政・司法は藩の一円(いちえん)支配が基本であったので、地頭の知行権は年貢の徴収権を主とする小さなものであったと考えられる。
知行所には地頭の任命した蔵本(くらもと)がいて、年貢・小役の収納にあたり、地頭の課する御用金・無尽金(むじんきん)なども扱っていた。天保(てんぽう)十二年(一八四一)の御幣川村の「御給所御免相御書上帳(ごきゅうしょごめんあいおかきあげちょう)」(『御幣川区誌』)でみると、御幣川には一一人の蔵本がいる。与左衛門は三人の地頭、吉作は二人の地頭の蔵本を兼任している。
年貢の課税率は村により年代により変わるが、享保(きょうほう)期(一七一六~三六)の課税率をみると更級郡の平均が三割七分であるのにたいして、布施高田が三割四分、横田三割、御幣川二割七分、会二割六分、布施五明二割五分とわりあい低い課税率であった。