上堰と中堰

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篠ノ井地区を潤している用水路は、犀口三堰のなかの上堰(かみせぎ)(布施五明、布施高田の一部、御幣川)と中(なか)堰(布施高田の一部、会)である。上堰は岡田で東西の堰に分かれる。西堰は五明・二ッ柳・御幣川西部を潤し、東堰は布施高田・御幣川を潤している。犀口三堰は松平忠輝の城代花井吉成父子によって慶長年間(一五九六~一六一五)に開削されたといわれる。はじめは岡田堰(布施堰)・今井堰・戸部堰といっていたが、寛文六年(一六六六)ころ松代藩が三堰を支配してから上堰・中堰・下(しも)堰とよばれるようになった。毎年春・秋に各村は一〇〇石につき三人の人足を出して用水の整備にあたっていた。

 弘化四年(一八四七)の善光寺地震のあと、川底が下がり取水が困難になった。このため取り入れ口を上流に移した。明治元年(一八六八)の大洪水では川底がいっきに二・四メートルも下がり取水はまったく不能となった。上堰では急きょ操(くり)(繰)穴(あな)堰と合口をつくった。明治四年に中堰が操穴堰を拡張するとともに合口取水工事を完成させた。以後、両堰は同一水系となり上中堰となった。川底の沈下はそれ以後もすすみ、取水口の構築と堰の保全に大きな努力が重ねられた。取水の悩みが解消されたのは昭和二十八年(一九五三)、小田切ダムが完成してからである。用水の維持管理は昭和二十四年から上中堰土地改良区がおこなっている。