西部の山ぎわから御幣川南部にかけては扇状地の西縁で千曲川の後背湿地帯(こうはいしっちたい)である。ここには岡田川(湯沢川、源流中尾山(なかおやま))・滝沢川(源流有旅大池(うたびおおいけ))をはじめ西部の山地から流れだすいくつかの小河川が流れこんでいる。寛永年間(一六二四~四四)初期の松代封内(ほうない)図をみると、犀川の分流(御幣川と考えられる)も流れている。低湿なこの地域では用水尻(じり)や河川の排水が大きな問題であった。
『栄(さかえ)村沿革史』につぎのような内容の記述がある。聖川(ひじりがわ)はもと石川から東流して御幣川や岡田川と合流していた。合流付近は沼沢となっていて少しの出水でも氾濫(はんらん)を繰りかえしていた。天正(てんしょう)のころ上杉景勝が塩崎村の清水戸右衛門(とえもん)に命じて、聖川を塩崎村の中央部で南流させて千曲川に放流させた。同時に岡田川や御幣川に堤防を築かせた。またその余水を御幣川・会・横田などに引水して耕地を開かせた。
花井吉成による三堰開削より前のことである。この工事を実証する史料はなにもない。しかし御幣川の西部に高土堤(たかどて)とよばれる堤防が残っていること、江戸初期の布施五明・御幣川・二ッ柳など岡田川流域の村々の石高の増加などから、この工事、あるいはこれに類する工事があったことは確かであると考えられる。