寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水のさいに出された「御幣川村水害御見聞願」には、流失した家について「吉五郎家 長四間 横二間 押流シ申候」と一軒ごとに記録してある。
これによって当時の農村の住宅の規模を知ることができる。この洪水で流失した六〇軒(総軒数七三軒)のうち、二一軒(三五パーセント)の家は一〇坪未満である(最小の家は三・五坪)。一〇坪以上二〇坪未満の家は一九軒(三二パーセント)である。二〇坪以上三〇坪未満の家は一七軒(二八パーセント)で、三〇坪以上の家はわずかに三軒(五パーセント)にすぎない。もっとも大きな三八・五坪の家は長百姓(おさびゃくしょう)の家である。ほかの村役人四人(肝煎(きもいり)一・組頭二・長百姓一)の家は流失をまぬがれている。