飲み水の確保

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布施高田は扇央(せんおう)にあるため地下水位が深く、井戸を掘ることは容易でなかった。御幣川など下流の地域でも井戸掘りは大変だった。経費がかかるうえに水質もよくなかった。そのため飲み水は用水に頼ることが多かった。用水は田用水と飲用水に分けられ大切にされていた。

 弘化の善光寺地震で犀川の川床が沈下してからは、取水が困難となって飲み水にも困るようになった。「今般私どもは呑水(のみみず)に差し支え難渋したので、御村方の御用水を貰(もら)い引き回したく、だんだん御無心申しましたところ、思(おぼ)し召(め)しをもって御承知くだされ有り難き仕合わせと思っております。然(しか)る上は年々御用水を掘り浚(さら)えするときは、御指図次第出動し言い付けのとおり掘り浚えをいたします。……後年になっても心得違えをしないよう子孫へきっと申し伝えます。」という、布施高田村の政吉らが、上堰のほか岡田川や滝沢川の流れている布施五明村の村役人にあてた慶応元年(一八六五)の文書が残っている(『わがまち芝沢のあゆみ』)。