自然災害のなかで大きな被害をもたらしたものは水害である。江戸時代に更埴地方をおそった水害は、記録に明らかなものだけでも五十数回ある(『更級郡誌』)。なかでも寛保二年(一七四二)の洪水の被害は大きかった。七月二十八日~八月一日(この年の七月は小の月で二十九日までであった)にわたる集中豪雨で被害は関東・中部圈一帯におよんだ。
八月一日、稲荷山-塩崎間で千曲川の堤防が決壊して濁流が御幣川村をおそい、会村から小森村に流れた。上(かみ)横田村には千曲川の直流の余波が押しよせ床上浸水五尺、さらに下横田村へあふれて床上三~四尺の浸水があった。
御幣川村は職奉行(しょくぶぎょう)に出した見聞願いで、「水死人男四六人・女五六人、流失本家(ほんや)六〇軒、田畑全部が砂入り・泥入り・押掘りで荒れ果てた。残った家は一三軒、家財はもちろん食べ物もなく餓死の状態である」と訴えた。
下横田村も水死三二人・流失本屋一九軒、会村は水死一六人・流失本屋二〇軒、上横田村が水死一三人・流失本屋五軒の被害だった。平地のなかほどにある布施高田村でも流死人は不明だが、三軒流失、田畑八七〇石七斗のうち二〇石四斗が砂泥入りとなり四一七石が作物がとれない状態であった。北国街道も全壊状況となった。