駅開業前の篠ノ井

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江戸時代の末には北国(ほっこく)街道(篠ノ井追分-見六(みろく)-御幣川(おんべがわ)-芝沢(しばざわ)-高田-原)沿いには多少の家並みができていた。文化四年(一八〇七)の「御幣川地押改(じおしあらため)絵図面」には宝昌寺から見六まで六〇軒ほどの家が描かれている(『御幣川区誌』)。文化七年出版の『東都道中分間(ぶんけん)絵図』にはフセ高田・柴沢・御幣川の地名と数軒ずつの家が描いてある。芝沢には立場(たてば)と書かれているので、旅人や人足相手に草鞋(わらじ)などを売る店らしきものもあったと思われる。しかし現在の駅付近に人家はない。明治十二年(一八七九)、正和(しょうわ)村の副戸長の描いた絵図をみても家は一軒もない。東北東の北国街道近くに内堀組として十数軒の家がみえるだけである。