篠ノ井線の開通

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明治二十九年篠ノ井線の建設が始まった。鉄道作業局出張所が設置され、官舎二〇戸と合宿所二棟が建設され町にも活気が出てきた。篠ノ井線は明治三十三年西条まで通り、三十五年には塩尻まで全通した。篠ノ井は関東・関西を結ぶ交通の要衝となった。明治三十三年の乗降客は三三四人、発着取り扱い貨物七四トン、駅員も四三人になった。篠ノ井線はすべて篠ノ井仕切りの発着で、旅客・貨物ともに六往復であった。信越線の列車運転回数は旅客六往復、貨物四往復であった。駅の発展とともに町も発展した。明治三十五年ころには運送店・銀行・旅館などの駅前集落ができあがった。明治四十年代になると飲食店・人力車屋・雑貨屋・蹄鉄屋(ていてつや)などがあいつぎ開店し、駅前通りに家並みが連なった。

 大正六年(一九一七)には犀川信号所が川中島駅となり、篠ノ井-川中島間が複線となった。同九年には川中島-長野間も複線となって篠ノ井駅の交通量はいっそう増大した。