大正四年の『更級郡統計書』によって当時の乗り物をみると、自動車はまだ一台もない。交通手段は馬車・人力車が主体だった。昭和のはじめまで駅近くに二軒の人力車屋があった。自転車は明治末期に入っているが、高価なうえに自転車税もかかるのでなかなか買うことができなかった。篠ノ井全体で五九台、一〇世帯に一台あるかないかの数だった。昭和八年(一九三三)になると一〇六二台と普及している。
篠ノ井電信取扱所の業務開始は明治三十五年である。電話の通話は同四十二年である。一番から一一番までの加入であった。同年の稲荷山の加入数が五四台なのでかなり少ない。昭和初期には一〇〇番台になり、昭和二十七年には九世帯に一台に増えている。電灯がともったのは明治四十一年ころからである。