農業の変遷

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『町村誌』によると、明治十五年(一八八二)ころの篠ノ井地区の農産物は米・大麦・小麦・粟(あわ)・大豆・小豆・菜種・綿である。少量であるが繭・生糸が上州や横浜へ、白木綿が近郊に売られていた。江戸時代と同じく自給用の作物栽培を主体とする経営であった。

 農家が市場販売を目的とした経営をするようになったのは、大正時代に入ってからである。

 そんななかにあって横田だけは、江戸時代からきゅうり・なすなどを上田へ販売していた。明治以後は長野にも販路を広げている。明治四十四年、県下に先駆けて横田青果物市場を設立している。栽培の工夫・研究も熱心で、横田節(ふし)なりきゅうりなどのすぐれた新品種もつくりだしている。

 養蚕は寛政(一七八九~一八〇一)以降藩の奨励もあって少しずつさかんになってきていた。明治になって生糸市場の好況で養蚕農家は年々増加して養蚕は農家経済の中心となった。桑園も増加して昭和五年(一九三〇)には最大となった。

 昭和二年から繭値が下落した。元年に一〇アールあたりの収益が一一五円であったものが、三年には九〇・六円、五年には四二・六円に下落した。しかし大豆の八・八円(昭和五年)など雑穀栽培よりはるかに高収益であり、リンゴの収益とくらべても遜色がない農家の大切な収入源であった(『更埴地方誌』)。

 リンゴは共和(きょうわ)村の新田に移入された明治二十年前後には瀬原田(せはらだ)地区にも入っている。干ばつや霜害に弱い桑園にかわる作物として注目されていたが、大正時代は繭の高値もあって生産は一進一退だった。瀬原田・柳沢の山腹や横田の自然堤防の桑園がリンゴにかわったのは、不況で繭値の下がった昭和五年ころからである。以後栽培面積はしだいに増加し、昭和十六年ころにはピークに達した。しかし、同年二月の作物統制令で生産は停滞した。