明治三十七、八年ころの絵図をみると、駅前通りに萬屋(よろずや)・丸通(まるつう)運送会社・六十三銀行・旅館をはじめ三〇ほどの商家が描かれている。桑園・水田がわずかだが残っている。芝沢の横町から本町にかけて二〇軒ほどの商家がみえる。
それから八~九年たった大正二年(一九一三)、郡役所移転のさいに信濃毎日新聞に九二企業が祝賀広告を出している。篠ノ井の商店街が急速に発展していることを知ることができる。同年商工会議所の前身である篠ノ井停車場商工組合が結成された。
郡役所の移転につづいて諸行政機関・学校などの移転や新設、郡都としての道路の整備により市街地は年を追って拡大し、商業も年々発展して松代・屋代・稲荷山(いなりやま)に対抗して商圏を伸ばしていった。昭和三年の篠ノ井町と栄村の合併時には篠ノ井町の商工業戸数は四八〇戸、総戸数八一〇戸の六〇パーセントを占めている。当時の栄(さかえ)村の商工業の比率はまだ一四パーセントであった。
大正三年の町制施行を記念して祇園(ぎおん)祭も始まり、昭和四年には恵比須講(えびすこう)の宣伝隊が自動車数台に乗って近在を回っている。町には活気がみなぎっていた。