明治五年(一八七二)学制が発布された。篠ノ井地区は第一六小学区に属し今里(いまさと)村の連合区学校(日新館)に通学することになった。しかし遠隔で通学が困難なことから、御幣川・横田・会・布施高田・布施五明・瀬原田・小森の七ヵ村は明治六年、御幣川村の宝昌寺を仮用して学校を設立する請願を県におこなった。一学区内に二校は許されないと当時の郡長は反対した。しかし、のちに通明小学校の主座訓導になった小林全苗(ぜんみょう)らの奔走で一小学区一校のシステムを破り、第一六小学区南校として明治六年十一月に開校された。通明の名は『中庸(ちゅうよう)』の「至誠通神明(しせいしんめいにつうず)」からとった。同十三年、宝昌寺の西に新校舎を建設した。その後明治四十三年、現在地に移転新築した。明治三十一年高等科を設置して尋常高等小学校、昭和十六年(一九四一)、国民学校令で国民学校となった。さらに戦後六・三制の新学制の実施でふたたび通明小学校となった。