工業の発達

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戦争中の工場の疎開によって触発された工業は、戦後国道一八号(現主要地方道長野上田線)沿いの工業化という形であらわれた。戦前は鉄道が中心で国道はあまり利用されなかったが、戦後、自動車輸送の利点に注目した企業が進出を始めた。なかには小山鋳造(昭和二十一年)、高沢産業(二十二年)、丸山工業(二十三年)、西沢スキー(三十六年)のように、戦争中創業の前田建設(現前田製作所)に匹敵する従業員一〇〇人をこえる大きな企業があった。昭和三十一年、川中島バスが篠ノ井営業所を国道に移転した。これにともない給油所などの輸送サービス施設も開設された。昭和三十二年、篠ノ井町工場誘致条例が制定された。

 しかしすでに地価の高騰(こうとう)が激しくなっていた。また工場の進出が計画的でなかったため、広い空き地を得ることはむずかしくなっていた。このために工場の進出は頭打ちとなり、大きな規模の工場は地価も安く、広い土地の得やすい更北・川中島町や更埴市へ向かうようになり、丸山工業や小山鋳造などの工場も移転していった。