商業の推移

42 ~ 43

戦後工業化がすすんだといっても篠ノ井の中心産業は商業であった。昭和三十七年の産業別生産額では第三次産業が四九・三パーセントと圧倒的な額を占めていた(『市勢要覧』)。

 その中心をなす商業は、企業数では食料品小売業が三〇パーセントともっとも多く、ついで飲食店が一五・二パーセントを占めていた。更埴地方で飲食店の比率が一〇パーセントをこえる町村は温泉地の上山田町と篠ノ井だけで、交通都市・政治都市としての特色がみられた。商品売上額では卸売業の比率が七〇パーセントを占め、果物・蔬菜(そさい)などの農産物と金属材料の販売が中心であった。後背地(こうはいち)の豊かな農産物を集荷する交通の便と比較的大きな金属工場があったためである。

 しかし、昭和四十年代以後その活動に陰(かげ)りがでてきた。多くの企業が地価が安くしかも広く獲得できる更北、川中島地区に進出したからである。昭和四十七年から五十六年までの地区別事業所の増加率をみると、篠ノ井の三・三パーセントにたいして更北地区は一一・四パーセント、川中島地区が一二・三パーセントの増加である(「長野市の事業所」昭和五十六年)。その結果、昭和六十年度には篠ノ井の年間商品販売額は二三五七億円で、更北地区の青木島の四〇七三億円の半額にすぎなくなっている。平成九年(一九九七)では、市場団地のある更北の真島が一兆六七六二億円、青木島の一兆三四八億円にたいして篠ノ井は七四九一億円である(『長野市統計書』)。

 昭和四十年には四五八世帯を数えていた内堀区の世帯数が、平成十年には二二一世帯になるなど、かつての中心市街地であった内堀・芝沢区などの戸口の減少がいちじるしい。平成八年には駅前にあったただ一つの大型店も撤退(てったい)してしまった。駅前を中心とする旧市街地の再開発がいま大きな課題となっている。