合併と分離

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第二次大戦後、地方自治制度の改革にともない町村の合併が緊急の課題となった。昭和二十八年九月一日町村合併促進法が公布され、長野県も合併をすすめた。昭和二十九年四月六日県から稲荷山町、桑原村、八幡(やわた)村、信田村、塩崎村一町四ヵ村の合併案が示された。八月下旬稲荷山町から合併の申し入れがあったが、村内の意見が一致せず、この合併は中止となった。三十一年一月四日、篠ノ井町から合併して新しく市を建設したいと申しこんできた。いっぽう塩崎村は稲荷山町、篠ノ井町、塩崎村の二町一ヵ村の合併を計画していたが、この案には稲荷山町が反対した。三十二年三月三十日県知事は稲荷山町、塩崎村、八幡村の合併を勧告した。三十三年四月、九月三十日までに合併し人口が三万人あれば市制を施行できることになった。

 ここで合併の気運がもちあがった。この時点で前述の知事案のほかに、篠ノ井市制案(塩崎・篠ノ井合併)、更埴中部市制案(屋代・埴生(はにゅう)・稲荷山・八幡・塩崎)があった。この三案をみた塩崎村の動向は、篠ノ井東・篠ノ井上・平久保(へくぼ)・山崎・角間(かくま)が篠ノ井市制賛成、四野宮・四之宮・長谷(はせ)・越(こし)が更埴中部市制案賛成、上町が分割反対であった。九月二十五日議会全員協議会を開催したが、更埴市制案に賛成の長谷・越・四野宮の人びとは稲荷山駅前に集合し、見六(みろく)をへて議会までデモ行進して更埴市制案参加をアピールした。翌二十六日篠ノ井市制案反対の南部五区の人びとは自治村を設立した。九月三十日、村議会で篠ノ井市制参加一二票、更埴中部市制七票で篠ノ井市制参加を決定した。三十四年四月三十日に塩崎村は解散式をおこない、五月一日篠ノ井市が誕生した。その後篠ノ井市は四十一年十月十六日長野市に合併した(『長野県市町村合併誌』総編)。