高速道地点の遺跡は、稲荷山駅北側の微高地で、縄文前期初頭の集落跡と古墳前期の祭祀(さいし)域、中世居館跡を検出した。低地では弥生中期以降近世までの水田遺構を調査した。祭祀をおこなった区域は幅約一三メートル、深さ一・五メートルの大溝で一四〇メートル四方に区画されている。大溝からは高坏(たかつき)・器台などの供献用土器、多量の建築材や木製農具、銅鏡、銅鏃(どうぞく)、車輪石(しゃりんせき)・石釧(いしくろ)・玉杖(ぎょくじょう)・勾玉(まがたま)などの石製装飾品、ふいごの羽口(はぐち)、獣骨、炭化米などが出土した。川柳将軍塚古墳などに眠る首長の儀礼の場と推定されている。弥生水田は傾斜に応じて区画されたため不整形で、畦(あぜ)には補強のため多くの杭(くい)が打たれていた。水路には多数の杭や建築部材、木製農具を転用して補強した土手があった。鋤(すき)や田下駄などの木製農具、呪符木簡(じゅふもっかん)などの祭祀具、弓・盾などの武具、櫛(くし)、下駄、紡織具、編物などがあった(中央道一五)。