小長谷部

58 ~ 59

五世紀前半の末ころ允恭(いんぎょう)天皇の時代に、科野の国造は伴(とも)を中央に送りだしていた。六世紀のはじめ武烈(ぶれつ)天皇のとき御名代(みなしろ)の小長谷部(おはつせべ)を塩崎あたりに置いた。御名代は地方豪族(国造)が一定の物資や労力をさしだす制度で、地方豪族の一族から伴を出し、伴は常時中央に出て朝廷に奉仕する。

 大宝(たいほう)二年(七〇二)大宝律令により更級郡に九郷が置かれたが、その一つ小谷(おうな)郷は小長谷部にちなんだ郷名であろう(『県史』①)。塩崎はこの小谷郷に属した。

 欽明(きんめい)天皇のとき更級郡に金刺部(かなさしべ)が置かれ、金刺舎人(かなさしのとねり)が郡司(ぐんじ)をしていた。金刺は科野国国造の一族である。

 荘園が設置されると、塩崎は桑原・稲荷山とともに四宮庄(しのみやしょう)に属した。文治(ぶんじ)二年(一一八六)「乃貢未済(のうぐみさい)」の荘園のなかに「四宮庄南北、御室(おむろ)御領」とあり、四宮庄の領家は仁和寺(にんなじ)である。仁和寺は、仁和四年(八八八)宇多天皇が建立し御室御所とよばれた。いつごろか不明であるが、御室御領となり鳥羽天皇第三皇女八条院の所領で、その後皇室に伝えられ大覚寺統に伝わった。永仁(えいにん)六年(一二九八)仁和寺北院領四宮勅旨(てし)は高山寺に寄進されたが、その場所は不明である。