地頭

59 ~ 60

鎌倉時代末の四宮北条の地頭は北条円明で、元弘(げんこう)三年(一三三三)鎌倉幕府滅亡のさい北条高時とともに自害し、所領は没官領(もっかんりょう)となった。建武(けんむ)元年(一三三四)六月十八日、諏訪円忠(えんちゅう)は四宮庄の地頭職に補せられた。円忠は幕府につかえ功績があった。建武二年円忠は、天竜寺の建立の造営奉行人の一人であった。この関係で四宮北条の地を天竜寺に寄進した。円忠の所領は定田(じょうでん)四一町、在家(ざいけ)三四宇であったが、そのうち二八町と二五宇を寄進した。

 建武二年(一三三五)の中先代(なかせんだい)の乱にあたり、四宮氏(諏訪上社神氏一統)は北条時行に加担し、保科氏とともに船山の小笠原氏を攻めて敗れた。四宮氏にかわって小笠原氏は四宮庄北条の一部の地頭職に補せられた。小笠原氏領の一部はその一族赤沢氏にあたえた。宗氏の所領もあった。

 応永七年(一四〇〇)大塔(おおとう)合戦で小笠原長秀が敗れ、四宮は村上領となったが、永享(えいきょう)九年(一四三七)ふたたび小笠原の手に帰した。永禄(えいろく)六年(一五六三)武田領、天正(てんしょう)十年(一五八二)上杉領となった。塩崎には清水三河守(五二五石)がいた。慶長(けいちょう)三年(一五九八)上杉景勝(かげかつ)が会津へ移封(いほう)したあと、領主はめまぐるしくかわった(四節一項参照)。