長谷(はせ)字自助(しらすけ)にあり、長谷寺から登ること約五〇〇メートルで本城に達する。篠山(しのやま)からつづく尾根の先端にあり、一段と高くなったところが本郭(ほんくるわ)で、北・南側は急峻(きゅうしゅん)で東へ尾根が延び、帯(おび)郭がある。本郭は標高五六九・三メートル、ふもとからの比高差約二〇〇メートル。登りはきつく、そのうえ途中に巨岩が露出し、人がかろうじて通れる難所かある。
本郭は東西二四メートル、南北一五メートルの細長い長方形で、東側に空堀(からぼり)をへだてて高さ三メートルの物見櫓(ものみやぐら)がある。西側が搦手(からめて)で急斜面を一四メートルくだると空堀があり、さらに一三メートルくだって尾根を横切る二重の空堀かある。この空堀はとくに北側の斜面に六四メートル延びている。また物見櫓の東方に二つの大きな郭がある。二の郭は物見櫓から七メートル下がり東西二四メートル、南北三三メートルの長方形、三の郭は二の郭から一・四メートル下がって東西一四メートル、南北二二メートルの長方形、尾根上に七~八つほどの帯郭がある大規模な城である。二と三の郭の北側に石積みの土塁がある。応永七年(一四〇〇)の大塔合戦のとき小笠原長秀が逃げこんで籠城(ろうじょう)した。このころは物見櫓と本郭が本城で、永禄七年(一五六四)武田信玄が塩崎城によって上杉方と対峙(たいじ)したとき、物見櫓のまわりを削って二・三の郭や空堀、帯郭を築造したと思われる。現在地表面で確認される遺構は戦国時代築造の構想を示している(図1参照)。