四 石造文化財

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 江戸時代中期から後期にかけて、講の組織化、農民の経済的向上、信仰心、造塔思想の浸透により石造仏の建立がさかんになった。塩崎地区の石造文化財は四三五基(『塩崎の石造文化財』昭和六十三年)と非常にたくさんある。一番多いのは石灯籠(いしどうろう)五一基、ついで筆塚(ふでづか)二五、石祠(いしほこら)二三、道祖神と馬頭観音二二基、庚申塔(こうしんとう)二〇基、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)一八基となっている。宝篋印塔(ほうきょういんとう)で一番古いのは平久保聖川土手にあり、室町時代の造立である。その他造立年代の古いものを見ると、灯籠は天用寺裏の寛永四年(一六二七)、地蔵菩薩は長谷観音堂前の正徳(しょうとく)二年(一七一二)の座像、庚申塔は長谷神社境内の寛延(かんえん)三年(一七五〇)で、二鶏二猿である。三三ヵ所(巡拝塔)は寛延四年、東篠ノ井にあり同行者三人の名が陰刻されている。筆塚は明治・大正時代が多く、記念碑は戦後に多い。筆塚は見林の、塩崎知行所二代目松平忠常の文化元年(一八〇四)「府君遺墨之塚」。句碑の古いのは長谷観音にある文化年間の戸倉の初代天姥虎杖(てんばこじょう)のもので、二世天姥超悟(ちょうご)(天保(てんぽう)八年、一八三七)、三世古慊(こけん)(天保十四年)の句碑もある。

 徳本(とくほん)は江戸中期の浄土宗の僧で、紀伊国(和歌山県)の生まれ。天明四年(一七八四)出家、草庵(そうあん)に住み、木食(もくじき)、単衣(ひとえ)、長髪で、高い声で念仏を唱えた。文化十三年(一八一六)三月、江戸伝通院(でんずういん)山内の大仏堂を出立し、四月一日横川関所、二日上田願行寺に泊まった。それから川中島平の寺々をまわり、僧侶や一般の民衆に十念を授けた。五月十七日から二十一日まで天用寺に滞在して、ここを訪れた僧侶や民衆に十念を授けたり名号(みょうごう)碑の揮毫(きごう)をした。文化十三年建立の徳本名号碑は天用寺・浄信寺・欣浄寺にある。