一 領主

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 慶長(けいちょう)三年(一五九八)上杉景勝(かげかつ)が会津へ移封したのち、同年八月松城に田丸直昌(ただまさ)、同五年二月森忠政、同八年二月家康の六男松平忠輝か入城した。忠輝は改易され、そのあとへ元和(げんな)二年(一六一六)七月家康の孫松平忠昌、同四年三月酒井忠勝が一〇万石で入った。この一〇万石のなかに塩崎村が入っていない(『信史』22)。同八年八月忠勝は出羽鶴岡に移り、上田城主真田信之が松城城に入り、上田城には小諸城主仙石忠政が入った。塩崎は「川中島之内残物」として、稲荷山(いなりやま)村ほか七ヵ村一万八八石余のなかに入って仙石領となった(『信史』23)。宝永三年(一七〇六)仙石政明(まさあきら)は但馬(たじま)(兵庫県)の出石(いずし)へ移封(いほう)、出石から松平忠周(ただちか)が入封(五万八〇〇〇石)し、塩崎は上田藩領となった。

 享保(きょうほう)二年(一七一七)忠周は京都所司代に就任し、近江で一万石を領有した。川中島八ヵ村はこれと交換され幕府領となった。享保十五年五月、所司代を辞任、近江一万石を返し、川中島八ヵ村はまた松平領となった。八月忠愛(ただざね)は弟忠容(ただやす)に川中島四ヵ村五〇〇〇石を分知し、塩崎旗本知行所が成立した。忠容は寛保(かんぽう)三年(一七四三)九月蔵前取りとなり、幕府領となった。宝暦六年(一七五六)九月、再度塩崎知行所となり明治維新までつづいた。慶応三年(一八六七)十二月王政復古、翌四年四月二日、東山道鎮撫総督は、旧幕府領の取り締まりを尾州藩に命じた。同閏四月二十一日、政体書で地方を府藩県の三治とした。八月二日信濃国内の旧幕府領で伊那県を創設した。九月八日明治と改元。十一月十二日、松平忠厚の名代は伊那県庁に呼びだされ、「万石以下の知行所は最寄りの府県の支配」となり伊那県の所属になったことを告げられ、十二月三日参県するよう命じられた。また十二月二十二日、来春までに知行所を引きわたすよう命じられた。明治二年三月九日伊那県は塩崎知行所を受けとり、塩崎は尾州藩取締所中之条役所で取りあつかわれることになった。四月二日、忠厚は塩崎在郷家臣八人に帰農を命じた。尾州藩は五月三日中之条局を開設した。翌三年九月十七日、東北信六郡を中野県とし、塩崎は中野県に属した。明治四年六月中野県は長野県となり、同九年現在の長野県となる。