天正(てんしょう)六年(一五七八)平久保(へくぼ)が塩崎村に入り、村の範囲が確定した。村内が組分けされたのは慶長初年で、文化年間(一八〇四~一八)、長谷郷(越組・長谷組)、中郷(四ノ宮(しのみや)・上町・本町・角間)、北郷(山崎南・山崎北・平久保・上篠ノ井・東篠ノ井)の三郷一一組が確定した。
享保十五年(一七三〇)松平氏が川中島五〇〇〇石(塩崎・今井・上氷鉋(かみひがの)・中氷鉋)を領有すると、塩崎(塩崎小学校入り口付近)に陣屋を置いた。陣屋は東西一七間余、南北二〇間、約三四〇坪であった。松平氏は江戸に在住し、重要な事件が発生したときに重役を派遣した。知行所には代官や手代などを置いた。村役人として庄屋・組頭・長百姓を置いた。慶長(けいちょう)九年(一六〇四)に肝煎(きもいり)二人、元和(げんな)年中(一六一五~二四)庄屋二人、元禄十五年(一七〇二)から一人、文化八年から長谷郷・中郷・北郷それぞれに庄屋を置いた。組頭は各組に一人が原則、長百姓は安永八年(一七七九)、弘化三年(一八四六)には二五人がいた。文化・文政(一八〇四~三〇)には三人の勘定組頭を置いた。
庄屋は村政を切りまわす長としてもっとも重要な役であった。その給与を宝永三年(一七〇六)にみると、村役抜け高八〇石分、ならびに金子五両を村中より出し、領主から籾(もみ)二〇俵が四年に一度支給された。組頭には村役抜け高一五石分と領主から籾一〇俵が八年に一度支給された。
村を経営していく経費は村人用金といい、村民への割り当てを夫銭割(ぶせんわり)といった。明和二年(一七六五)村入用金は銭二九三貫文、寛政十年(一七九八)には六〇九貫文と二倍余に増えた。村入用の内容をみると、人件費、事務材料費、領主の飛脚代、舟渡し、川除(かわよけ)自普請などである。