四 騒動

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 江戸時代、塩崎には三件の騒動があった。最初は宝暦十二年(一七六二)一月長谷の宮崎権之丞、今井の五兵衛・庄助が指導者で一三件の要望を代官所へ強訴(ごうそ)した。上田までの米上納をしているが、入用が多くかかるので金納にしてほしいなどである。今井など下郷では枡(ます)騒動をおこした。いままで年貢は一俵が一斗六合入りの枡で五杯だったものを、新しい枡は一斗一升入りにされたがもとにもどすなどを要求した。大半の要求は受けいれられ、指導者の罰則は軽かった。

 ついで文化六年(一八〇九)二月から十年八月にかけようやく決着のついた「文化一件」がある。これは山崎の飯島利七の出願に始まる。いままで清水氏が独占していた庄屋職を、上農層に移させ各郷一人の三人制とすること、無高となっている富農の地所を検地し、荒れ地の開墾をさせてほしいなどというものであった。文化八年三庄屋制となり、検地の結果、毛付高(けづけだか)が約五〇〇石増し、利七には開発免許が出た。

 文化事件後三六年をへて弘化三年(一八四六)四月弘化事件がおきた。これは大紛争であった。三庄屋対小前層・中間村役層の対立であった。長谷郷総代初次・藤兵衛が御出役の代官へ、卯年の日光御用金の利子、稲荷山(いなりやま)ほか三ヵ村からの借入金、新田冥加積立金などについて不審な点があるので取り調べ願いたいと訴えでた。この結果庄屋はすべて交替し、組頭・長百姓も半数は入れかわるなど、小前の要求が実現した。