一 用水

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 塩崎地区の水田用水は主として聖(ひじり)川に頼っていた。慶長(けいちょう)十一年(一六〇六)花井吉成により用水量の四分の一を長谷(はせ)・塩崎、四分の三を石川・二ッ柳(ふたつやなぎ)と定めた。元和(げんな)三年(一六一七)水争いで塩崎の人ひとりが殺されたのを契機に、半分ずつとなった。明暦(めいれき)年間(一六五五~五八)稲荷山佐野川の河口付近で千曲川の水を取りいれ、長雲寺の近くを通って越・長谷にいく堰(明暦用水・古用水)をつくったが、享保(きょうほう)八年(一七二三)・同十三年の大洪水で流失した。

 延宝八年(一六八〇)猪平(いのたいら)池、元禄八年(一六九五)河越池(かごしいけ)を築造したが、水不足は解消されなかった。寛政六年(一七九四)越・長谷両組が志川(しがわ)村(更埴市)から用水を開鑿(かいさく)する願いを出したが、二、三組が反対して実現しなかった。その後何回も請願をつづけ、ようやく文政五年(一八二二)塩崎村一致の願いであるとして役所に申請し、十一月には志川で試掘と水盛測量がおこなわれた。文政七年稲荷山村との堰筋借地の取りかわし規定が成立した。佐野沢中央から湯之崎まで四一九二坪、この借地料年貢籾八三俵四斗余である。同年完成、領主は村役人に褒美(ほうび)をあたえている。費用は文政九年までに一〇三六両余、領主から二〇〇両の手当が出た。残りは石高に応じて分担した。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)には、文政八年より水田が二三町歩二一二石増した。大正九年(一九二〇)、取り入れ口を八幡村志川地区に求め、最新式の電気ポンプによる揚水機場を設置して給水したので、安定して水田耕作ができるようになった。