奈良時代に制定された東山道(とうさんどう)支道は、越(こし)将軍塚から越にくだり、西仏(さいぶつ)の墓付近・長谷(はせ)神社下社前、字白助(しらすけ)と鶴萩(つるはぎ)の境、中郷神社の裏、河越池の西字池の上をへて上石川に通じていたと想定される。
慶長七年(一六〇二)には中山道(なかせんどう)が設定された。ついで中山道追分宿(軽井沢町)から分かれて越後高田(上越市)へいく北国(ほっこく)街道が造成された。塩崎へは矢代(やしろ)の渡しで千曲川を渡り、軻良根古(からねこ)神社の東をへて分去(わかさ)れに出る。ここに昭和五十一年(一九七六)「篠ノ井追分宿跡」の記念碑が建立された。ここで中山道の洗馬(せば)宿(塩尻市)からきた善光寺街道(北国西往還)に合流し東篠ノ井へ向かう。一里ごとに一里塚がつくられた。平久保に一里塚跡がある。矢代の渡しがあり、また善光寺街道と北国街道の分岐点のため、宿場はなかったが、間宿(あいのしゅく)で商業が発達していた。文政・天保(一八一八~四四)のころ商売屋は塩崎村に六四軒あった。篠ノ井には小商七(塩崎一三)、居酒屋三(塩崎一二)、茶店一〇、水茶屋九、宿屋二(塩崎四)があった。明治十一年(一八七八)九月二日、明治天皇が御巡幸のおり千曲川の船橋(明治五年十一月十八日築造)を板輿(いたこし)で渡っている。