近世塩崎地区の主な天災は干害九回、水害水災九回、干水害二回、冷害作五回、大地震・雹害(ひょうがい)各一回などである。水害をみると、享保(きょうほう)元年(一七一六)から宝暦十三年(一七六三)までの約五〇年間は、七〇〇石余の永引きとなり水害の激甚さを物語っている。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月の戌(いぬ)の満水により、男女八三人死亡、流失家屋は篠ノ井両組一九軒、山崎七軒、上町四軒、計三〇軒。神社・寺院も被害をうけた。ふだんの水害は田畑のみで人家への被害はなかったのに、このときは、聖川も氾濫(はんらん)して被害を大きくした。年貢籾(もみ)は一八〇〇俵割り引きされた。干害の最大は承応(じょうおう)三年(一六五四)で、水田七四六石分が田植え不能、一三五石分は収穫できず、収穫できたのは二〇石だけであった。天保四年・九年には冷害凶作による飢饉(ききん)があった。塩崎地区では、これらの水害に対処するため水防対策、川普請(かわぶしん)にも努力してきた。元和(げんな)六年(一六二〇)千曲川左岸に柳を植えた。川除(かわよけ)普請もした。国役(くにやく)御普請は寛政三年(一七九一)から明治五年(一八七二)まで二一回繰りかえし実施されている(『塩崎村史』)。弘化四年(一八四七)の工事費は九七三両で、そのうち幕府の下げ渡し金は六七九両の七〇パーセント、残りは私領出資金であった。大正十三年(一九二四)千曲川大改修工事が塩崎地区に始まり、昭和六年(一九三一)完了して水害の憂いがなくなった。
弘化四年三月二十四日夜一〇時に発生した善光寺地震では、村人四一人、他村の二〇人、計六一人死亡、潰(つぶ)れ家二三五軒、半潰れ二〇五軒の大被害をこうむった。とくに長谷・越地区に多かった。御開帳にいっていた四軒七人が死亡した。大きな建物では長谷寺庫裏、康楽寺、天用寺、法念堂などが潰れた。長谷・越の復興は早く、同年居宅一七軒が、残りの家も嘉永三年(一八五〇)までに再建されている。明治三十一年九月の大洪水は、長谷、越、四野宮(しのみや)を除く塩崎村が浸水した。塩崎小学校は床上二尺八寸に達した。