慶長三年(一五九八)の太閤(たいこう)検地をやりなおした慶長七年の森忠政検地で、塩崎の村高は二八一二石四斗五升四合となった。更級郡下では最大の大村であった。元禄十五年(一七〇二)の郷帳では二八五三石余と四〇石ほど増した。明治四年(一八七一)は二九四二石、社寺除地(じょち)六〇石、計三〇〇二石であった。
四 石高の変遷
慶長三年(一五九八)の太閤(たいこう)検地をやりなおした慶長七年の森忠政検地で、塩崎の村高は二八一二石四斗五升四合となった。更級郡下では最大の大村であった。元禄十五年(一七〇二)の郷帳では二八五三石余と四〇石ほど増した。明治四年(一八七一)は二九四二石、社寺除地(じょち)六〇石、計三〇〇二石であった。