宝暦十三年(一七六三)の「塩崎三〇〇〇石諸品書上帳」には、村高二八五三石のうち、水害などによる耕地の減少が九七六石余あり、残りは一八七七石で、水田七二四石、畑一〇五二石となっている。主な作物は稲、麦、粟(あわ)、黍(きび)、胡麻(ごま)、そば、大・小豆、菜種、たばこ。肥料は草苅敷、油滓(かす)、下肥など。産物は善光寺・松代・上田町などへ販売し、たばこは松本へ出した。農閑期には男はねこ・むしろ・わらじをつくり、女は木綿布を織った。
それから百年余をへて明治になると、塩崎の農業は大きく変貌(へんぼう)した。大きな変化をもたらしたのは養蚕業である。畑は桑畑に転換した。養蚕は江戸時代末に始まり、力を入れたのは維新後で、蚕種の製造が多く明治五年(一八七二)には一万六二六二枚になった。生糸は製糸工場で製造され、明治十七年がもっとも多く一三五貫を横浜に出荷したが、工場は二十三年に閉じられた。大正七年(一九一八)養蚕飼育戸数は五五九戸、三九七一枚掃きたてた。繭は明治三年四六〇貫で、昭和十五年(一九四〇)には四万六三三六貫に飛躍した。米は明治十年の二四八六石から大正九年には四一四五石に、大・小麦は同じ期間に一七八八石から四九〇〇石にと大幅に生産増となった。その後大豆・粟などの雑穀の作付け面積は減少、果樹は明治三十三年ごろから導入された。長谷の畳表は宝暦年間(一七五一~六四)から昭和三十年代まで製造された。養鶏の絶頂期は昭和九年で、二三四戸で一万七〇八八羽が飼育された。畜産業はあまりさかんでなかった。明治十年に牛二頭、馬九頭、大正十年には馬二三頭、豚九四頭、昭和二十一年には乳牛八頭、役牛一二八頭、豚一一頭、馬七頭となった(『塩崎村史』)。