塩崎の近世の文化は活発であった。和算に秀(ひい)でたものに渋谷平太夫がある。かれは宮城流の和算を学び享保三年(一七一八)長谷観音に算額を奉納している。矢島物斎は江戸に出て佐藤一斎(いっさい)の門人となった。一斎は朱子学・陽明学の儒者で幕府の儒官となっている。矢島は嘉永(かえい)の没年まで十四、五年寺子屋師匠をつとめ、門下生から次代をになう優秀な師匠が多く出ている(『塩崎村史』)。教授内容は書、読、俳句が多く、謡(うたい)、算、漢もあった。
俳句はさかんで俳諧奉納額は明和八年(一七七一)から明治二十七年(一八九四)まで二〇枚ある。うち一〇枚は長谷寺である。文化から天保のころ天姥(てんば)と号した俳人が三人いた。初代天姥(虎杖(こじょう))は戸倉宿の人、文政六年(一八二三)没、二代天姥(超悟(ちょうご))は角間生まれの長谷寺住職慶覚で天保八年(一八三七)没、三代天姥の青々亭古慊(こけん)は、長谷の宮崎氏の出、天保十四年没。三人の句碑が長谷寺境内にある。また荒木流の武芸が、明治三十四年矢島孝雄ほか三人に相伝され門人が三一人いた。挿花(そうか)、謡曲もさかんであった。筆塚は寛政九年(一七九七)から大正十年(一九二一)まで二三基建立されている。