終戦直前の昭和二十年(一九四五)五月、見山(みやま)南部の鶴前・自助地区の山麗(さんろく)に、日出航空工業株式会社が地下工場を計画し、敷地の買収も終わった。零式戦闘機をつくるための施設であった。着工しないまま終戦となった。八月十三日長野市が空襲され、十五日終戦となり長い戦争は終わり再建に踏みだした。
塩崎村は明治十年(一八七七)の西南の役から昭和十三年の張鼓峰(ちょうこほう)事件までに二三人、日中戦争から太平洋戦争までの軍人、軍属、義勇軍、満州開拓団など一六五人、計一八八人の戦没者を出している。大正十四年(一九二五)、塩崎小学校入り口に忠魂碑を建てた。終戦でいったん埋めたが昭和二十八年に天用寺に再建した。毎年秋のお彼岸に慰霊祭をおこなっている(『塩崎村史』)。
昭和二十年十二月、総司令部から農地改革指令が出され、農林省の農地調整法が成立した。塩崎ではこれにより農地委員一〇名が選出され、農地改革が実施された。二十五年までに、在村地主、不在地主からの買収面積は一二三町歩、売り渡し面積一一九町歩、売り渡しをうけた農家は本村居住者六一五戸、村外居住者八〇戸、一町歩以上売り渡した地主は二七人であった。終戦の翌年、戦争中の指導者や旧職業軍人らが公職から追放された。塩崎村では翼賛壮年団長などが追放された。