共和地区の人口は明治初期には二五〇〇人ほどであった。養蚕業の発達とともに明治後期には三〇〇〇人に達した。その後太平洋戦争前までの約四〇年間は横ばい状態であった。戦後は比較的食糧事情にも恵まれ帰村者や出生者も増えて、昭和二十二年(一九四七)には四〇〇〇人に達した。しかし七、八年後には減少が始まり、同五十年には三〇〇〇人近くにまで落ちこんでいる。
その後ふたたび増加し、平成二年(一九九〇)には四〇〇〇人をこすようになった。これは篠ノ井市街に近い南部に工場団地が造成され、一部が市街化地域に指定され住宅が急増したためである。しかし、一戸当たりの家族数は戦後の五・三人にたいし、現在は三・一人と減少し、戸数の増加の割りには人口が増えていないのが現状である。