二 寺院

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 天照寺 曹洞宗 中組 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 日輪山 ③由緒 もと往生寺に真言宗の寺としてあった。永禄十一年(一五六八)洞繁(とうはん)によって曹洞宗に改宗、小松原と川中島今里境に開創した。天正(てんしょう)年間(一五七三~九二)了頓(りょうとん)が現在地に移転、中興開山となる。天保(てんぽう)三年(一八三二)密成(みつじょう)がみずから托鉢(たくはつ)し淮胝(じゅんてい)観音を迎え、記念に宝篋印塔(ほうきょういんとう)の石門を造立する。弘化四年(一八四七)の善光寺地震、大正十五年(一九二六)の小松原大火には避難所となった。平成六年(一九九四)本堂、観音堂の大改修と落慶法要。同十一年には庫裏を改築。宝物には懸仏や道元禅師絵仏四幅・立達磨(たちだるま)軸・出山釈迦軸などがある。

 観音寺 曹洞宗 北組 ①本尊 聖(しょう)観音 ②山号 不明 ③由緒 天保年間(一八三〇~四四)天照寺の金芽密成が開創し観音堂と称した。大正十五年小松原の大火で全焼したが奉賛会で再建した。昭和二十八年(一九五三)三月観音寺とした。

 光林寺 浄土宗 段ノ原 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 亀見山 ③由緒 開基は嘉元元年(一三〇三)広阿大善(こうあだいぜん)。はじめ三ツ塚にあったが天文(てんぶん)十六年(一五四七)春虎(しゅんこ)のとき現在地に移したという。本尊は延宝年間(一六七三~八一)恵急(けいきゅう)のとき阿弥陀如来の胎中に信玄寄付の阿弥陀仏の小像を納めたという。これを、腹篭(はらごもり)の本尊と呼ばれている。堂内はケヤキの丸柱、牡丹の彫刻の欄間(らんま)、花鳥と獅子の絵の格天井(ごうてんじょう)など豪華である。開山堂・鐘楼・山門は江戸時代造立。経堂は明治中期の建造。庫裏は昭和三十二年(一九五七)改築。寺物には探幽・雲泉・徴明などの掛け物がある。春はサクラの名所としてにぎわっている。

 常光寺観音堂 無宗 本組 ①本尊 十一面観世音 ②山号 小沢山 ③由緒 信濃三十三番観世音の二十一番札所(ふだしょ)である。本尊はもと常光寺(塩尻市洗馬)にあったが、廃仏殿釈(きしゃく)で明治九年(一八七六)古物商に売られた。当地の岡沢彦治郎が西国巡礼の帰り、その古物商と出会い譲りうけて自宅に安置した。昭和三十七年(一九六二)お堂を建て、同五十五年改築整備した。四月五日がまつりである。

 玄峯院 曹洞宗 古町 ①本尊 十一面観世音菩薩 ②山号 雪厳山(せつがんざん) ③由緒 はじめ臨済宗大興山長禅寺という。布施直頼(頼直という説もある)の開基。直頼の曾孫平林正家は信玄に属し、永禄十二年(一五六九)六月北条氏と伊豆国(静岡県)釜(かま)ノ壇(だん)の戦いで戦死した。正家の嫡子正恒は父を追慕し、天正三年(一五七五)五月上野(こうずけ)国秋間村(群馬県安中市)の桂昌寺の玄廓(げんかく)を招請し、寺号を雪厳山玄峯院とし曹洞宗に改宗したという。弘化四年(一八四七)三月の善光寺地震で諸堂破壊、嘉永六年(一八五三)四月、十八世仁応(じんおう)によって復興された。境内に正家の墓碑「雪岩院殿玄峯道三大禅定門」がある。なお、正恒は天正三年武田勝頼から牧之島城(信州新町)在城を命じられ、同十年には北信に進出した上杉景勝から「山布施・安庭・うたび・岡田」を安堵されている(『信史』⑩)。景勝が会津(福島)に移封したあとは、上杉氏の家臣団で中心的地位を占めるようになった。画家の児玉果亭はこの寺で学んでいる。


写真6 正家の墓碑(玄峯院)

 観照寺 真言宗 中町 ①本尊 大日(だいにち)如来 ②山号 普光山 ③由緒 永仁(えいにん)三年(一二九五)の創建という。開基は布施頼直。はじめ布光山観照寺と号し、永禄年間(一五五八~七〇)甲越両軍の戦火にあい焼失、文禄五年(一五五六)光観によって再興したという。延宝三年(一六七五)山号を普光山と改めたという。本尊は金剛界(こんごうかい)大日如来。昭和五十年(一九七五)寺内地籍から境内に移した大日堂の如来は胎蔵界(たいぞうかい)大日如来である。縁日は一月十八日で、戦前は謡曲・能大会でにぎわった。明治七年岡田学校発祥の地である。また「野州阿曽郡天命別地観音堂、永享四年卯月廿六日檀主了光」と銘記された銅製鰐口があったという(『更埴地方誌』)。