延享三年(一七四六)の岡田村明細帳によれば、家数一八七、人数八八五(男四五六・女四二九)。耕作のあいまに男は薪(たきぎ)や肥(こやし)をとり、ねこ・むしろ・わらじなどの藁(わら)細工をし、女は木綿の布を織り着物を縫っている。主な軒懸(のきがか)りは伊勢社に籾三俵。矢代・小市・赤坂・寺尾・笹平・市村・裾花などの船渡しの船賃として籾一九俵一斗。定夫給(じょうぶきゅう)籾一八俵。田植期の代かき馬代として松代領山中へ支払い籾三〇俵ほど。山布施村へ刈敷取りに入会(いりあ)う山年貢籾二俵四斗。薪代・田畑の肥代のため籾三二〇俵・金二四両用意しておく、などである。村には湯沢・正願寺沢・城之沢・蟹(かに)沢・滝沢・払沢(はらいざわ)など沢が多く、大雨には土堤が切れやすく、毎年破損修繕の人足一四〇〇~一五〇〇人が必要であった(「岡田村明細帳」寺沢隆夫蔵)。
天保(てんぽう)三年(一八三二)の岡田村は、五人組四八、戸数二四四。組名と組数は本組八、中組一三、南組八、築地六、大門六、新田七である。