松代藩の百姓は本百姓に当たる頭判(かしらばん)とこれに従属する判下(ばんした)百姓に大別される。慶応四年(一八六八)の川中島通り三三ヵ村の頭判は総家数の六四・三パーセント。小松原村は一五四軒のうち七三・四パーセントである。判下百姓から頭判にもなれるが、転落して頭判から判下百姓にもなる。また欠落(かけおち)していくものもいる。小松原村の吉三郎は行跡も村方馴合(なれあい)もよく、大工と小作に精を出していた。しかし、不作続きと怪我(けが)のため村方一三人から籾二四俵余と五二両余の借財をし、返済に差し支えていた。天保八年(一八三七)十二月妻とこども三人をつれて欠落した。一家は越中(富山県)、越後(新潟県)方面を放浪していた。同十三年三月両親とも病気になって、越後国頸城(くびき)郡柳井田(やないだ)村(新潟県新井市)の番小屋で養生していたが二人とも亡くなった。三人のこどもは先非を後悔し、小松原村へ帰住願を出し許可されたという(『長野』六一号)。