今井村と小松原村の山論

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文化二年(一八〇五)十二月三日、小松原村の村役人は山布施村の入会地秣場(まぐさば)の境界について今井村庄屋を訪ね、「中尾山道筋より鎌取(かまとり)沢まで」を主張した。今井村庄屋はこれに反対した。小松原村百姓一七〇人ほどは中道筋に入り、境土塚七ヵ所を築き、山ノ神塚を取りくずし、今井村の秣場を切り荒らした。今井村は翌三年三月江戸幕府評定所に訴えた。

 文化三年五月二日、評定所は今井村と小松原村の村役人を呼びだし、内済を勧めたがまとまらなかった。同四年十二月双方ともいったん帰村し、両村で熟談を重ねた。その結果、「駒爪沢より滝沢まで」と「山布施村のうち喜清次(きせいじ)持ち山」を今井村の秣場とし、山年貢籾三俵を納める。小松原村は「駒爪沢より亀沢まで」と「中道より駒爪沢まで」の替地に、山村山村の分地「安田林」をあてる。山年貢は一俵三斗とする、ということで歩みよった。これによって同五年六月二日示談が成立し、今井村も訴訟を取り下げた(「岡田村・小松原村関係古文書」)。