今井村と岡田村の出入り

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天保五年(一八三四)大夕立で沢水が岡田村の人家や田畑に押し入った。岡田村は崩れている今井村の秣場の鎌留(かまどめ)を願いでた。今井村は秣場が少なくなるので岡田村と山割りすることを主張した。岡田村は上田藩に訴えたが内済を勧められた。ただちに岡田村の清水六郎右衛門、今井村の田島助左衛門らの調停によって、割地堺をきめた。同八年十一月三日示談規定書を作成し、山崩れの場所は鎌留になった。