上中堰の開発

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犀口三堰(さいぐちさんせぎ)は松平忠輝領の慶長八年(一六〇三)以降、松代城代花井吉成(よしなり)・義雄父子の開削といわれ、岡田堰(上堰)・今井堰(中堰)・戸部堰(下堰)の三堰をいう。小松原村・岡田村は上堰六ヵ村に属する。年々の普請人足(ふしんにんそく)は村高一〇〇石あたり一日三人と定められ、小松原村二四人、岡田村四〇人で普請時には小松原村は大工・木挽(こびき)などの職人の賄(まかな)いをし、小奉行の賄いの味噌・塩・野菜・薪を出している。弘化四年(一八四七)善光寺地震では西方地盤の隆起にともない、犀川の河床が浸食し取水口を川上へ順に移動するようになった。小松原村は善光寺地震で泥に埋もれた万年河原(まんねんがわら)の開発にとりくんだが、成功しなかった。文久元年(一八六一)三堰の取水口より上流の竜宮岩に、操(くり)(繰)穴(あな)をあけて導水に成功した(操穴堰・神田(じんでん)堰)。慶応四年(明治元年、一八六八)にも大洪水のため河床低下、三堰とも取水困難となった。上堰組合は操穴堰組合と協議し、操穴の拡張工事をして操穴堰と合口になった。明治四年(一八七一)には中堰組合が趣意金二〇〇〇両を出し堰普請をして、操穴堰と合口になった。これにより上中(じょうちゅう)堰組合ができた。このころ小松原村の吉岡運右衛門は操穴堰守をし、上中堰総代として献身的に尽力したという。明治二十五年犬戻隧道(ずいどう)を開削、同三十七年高松隧道を築造、昭和十九年(一九四四)には笹原頭首工が建設された。同二十六年十月上中堰土地改良区の設立が認可された。同三十三年七月二十四日には東京電力株式会社の小田切発電所ダム右岸から、最大水量毎秒三〇〇立方尺(八・三四トン)の取水を確保した(『上中堰の歴史』)。


写真7 上堰中堰分水工 右端神田堰、中央が上堰、左端が中堰