近世につづき明治期にも二毛作はおこなわれていた。明治四十四年(一九一一)共和村の畑一五一町歩のところ、大麦一三三・七町歩、小麦九二・三町歩が作付けされていたから、水田裏作が多かったことがわかる。太平洋戦争の戦中・戦後、川中島平の二毛作率は八〇パーセントに達し、県内随一であった。昭和二十五年共和村の作付面積水稲一六一・九ヘクタール、小麦一〇八・〇ヘクタール、大麦三七・三ヘクタール。六月下旬から七月上旬に麦刈りと同時に田植えをやるため、多忙となり山中の馬の代かきと田植えの早乙女(さおとめ)を頼んでいた。早乙女は同三十五年、共和村へ篠ノ井職業安定所の斡旋で五七人、うち新潟県・富山県から二〇人きている。このころから二毛作は減少し、同五十年水田の二毛作面積二四・九パーセント、同六十年二・六パーセントとなり、平成七年(一九九五)にはほとんど皆無の状態となった。