養蚕の盛衰

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明治初期の小松原村の収繭量は六三貫余。明治四十三年(一九一〇)共和村戸数五五三のうち春蚕四二〇戸、夏蚕五〇戸、秋蚕三四〇戸が掃き立てている。大正十一年(一九二二)には共和尋常高等学校の高等科女子に蚕を飼育させている。同年篠ノ井町に更級繭糸会社が設立された。昭和初期には大霜害や大恐慌があり養蚕家にとっては打撃となった。一部はリンゴに転換していったが、昭和十五年(一九四〇)掃立戸数三六三、桑園面積一六〇町歩と養蚕はさかんであった。同二十二年長野県の反当たり所得は米七八五円、繭四七七円、リンゴ一万一三七五円となった。リンゴの高収入とリンゴの消毒で桑園の存続がむずかしくなり、同二十五年農家戸数五六二戸のうち、養蚕農家二〇六戸、同三十五年には二六戸と減少し、共和村は養蚕からリンゴに転換していった。