岡田の窯業

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岡田付近に良質の陶土が出土し、幕末から明治期に窯業が始められ、初期には年産一万五〇〇〇点の陶器が製造されている(『町村誌』)。岡田地区にはつぎのような窯元(かまもと)があった。(一)南町林部窯 創業は安政二年(一八五五)林部平左衛門。窯は滝沢川の土手を利用した登り窯。上田藩の御用達窯という。製品に緑釉(りょくゆう)のお神酒徳利(みきとっくり)、白薬をかけた大皿・小皿。(二)新田小林窯 文久元年(一八六一)小林祖左衛門の創業。窯は自宅地内、主体は柿色地に肩から黒釉(こくゆう)をたらした「岡田かめ」。陶土は近くの百八燈(ひゃくはっとう)や庚申塔(こうしんとう)の粘土であった。(三)大門米山窯 創業は文久三年松代から移った陶人米山直治、岡田川堤防を利用した登り窯、製品に水がめ・すり鉢など。のちに窯場を四辻に移し土器窯に改める。(四)米山窯 大門米山窯の分家、土器窯を築き素焼きかめ・土管など製作する。(五)大門稲垣窯 創業明治二十年(一八八七)稲垣富太郎。大門米山窯と同系統。(六)払沢(はらいざわ)丸山窯 開窯は明治二十三年丸山佐太郎。窯は茶臼山運動場西の山麓(さんろく)、製品はかめ・すり鉢・片口・生糸用の糸とり鍋をつくった。これらは主に鉄道交通の発達にともない、大窯業地の陶磁器におされ、明治後期から大正期後半に廃業した。最後まで残っていた新田小林窯も、昭和十三年(一九三八)には廃業した。築地の瓦焼きは明治期ごろ小笠原徳太郎が屋根瓦(がわら)の製造を始めたという。太平洋戦争後はセメント瓦、トタン屋根が流行し昭和三十年(一九五五)ごろ閉窯したという。もう一軒の滝沢彦太郎は後継者難と他県からの移人におされ、平成四年(一九九二)十月九日が最後の窯出しとなった。


写真9 岡田焼の水がめ (大門米山窯製)