小松原村の弘化四年(一八四七)善光寺地震の被害は『新収日本地震史料』によると、「家数一六〇軒のところ潰れ家のうえ残らず流失、一ヵ村河原になった。小松原の大神宮の拝殿は流れたが社は残っていた。死失七〇人ほど」とある。またほかに「地震による圧死七〇人、潰れ家の多いところへ、四月十三日湛水(たんすい)が押出して、田畑とも流失が多い」としている。地震は突然起きて、小松原断層が生じただけに圧死被害が大きかった。水害を予想し松代藩は水除(みずよけ)土堤を築いている。しかし、洪水はすさまじい勢いで、「濁流は竜宮で水丈六丈六尺四寸(約二〇メートル)となって、大音響とともに土堤を破り、石を飛ばし善光寺平を泥の海にした」という。小松原村は扇頂部に位置しているだけに、洪水の被害も大きかった。松代藩は稲の作付けに間に合わせるよう、急いで堰立てをしている。しかし、小松原村は安政二年(一八五五)になっても、「土石が厚く、大石小石が混じり開発がおくれている。犀口あたりは田植えができない」と嘆いている。田畑をもとにもどすため集めた石や砂利(じゃり)を「砂山(すなやま)」と呼んでいる。小松原地区に数多く大小の砂山があったという。今も、森之木・東田などに残っている。また、小松原の天照寺には、善光寺地震で亡くなった人の位牌(いはい)がある。
岡田村の被害は「地震御届書」によれば、家数二五六軒、人別一一三三人、うち潰れ家一三〇軒、半潰れ二九軒、即死二七人、怪我十一人。湯沢より東は七三軒のうち泥入り二〇軒、水入り五〇軒、地所は残らず水入りとなった。