茶臼山の地すべり

118 ~ 118

茶臼山北峰(標高七三〇メートル)の南側に南峰(推定標高七二〇メートル)があった。この南峰東側山腹が頂上をふくめて地すべりを起こした。地すべりの平面形は「くの字」をしている。全長二〇〇〇メートルのうち、上部八〇〇メートルは東南へ向いて、下部の一二〇〇メートルは付け替え前の滝沢川に沿って、東方へすべりくだった。滑動地の幅は一二〇~四三〇メートル、面積約四六ヘクタール、深さ平均二〇メートル、滑動土塊(どかい)量およそ九〇〇万立方メートルとされている。茶臼山の地すべりは宝暦七年(一七五七)五月にも起きていた。明治十七年(一八八四)には南峰山頂に亀裂が発生し、その後亀裂の東側山腹がしだいに沈下した。同三十一年新田部落の畑が隆起していることを発見。上部の亀裂の拡大とともに山腹各所に亀裂が生じた。大正年間(一九一二~二六)滑動が目立ってきたといわれている。昭和五年(一九三〇)新田部落前方に土砂が押し寄せている。滝沢川、宇土沢の流れが当時は地すべり地内にあったため、末端は泥流状になって流れだし、速度が早くなった。同十一年十一月新田部落では崩壊防止祈願祭をおこなった。同十五年ごろから地すべりは緩慢になったが、同十九年ふたたび活発になり、同二十四年ごろ扇状に広がるようになった。同三十九年ごろまで緩急を繰りかえしながら速度は落ちてきた。同四十年松代群発地震ごろ活発になったが翌年より急減し、同五十年ごろからは安定している。この間の主な対策として、堰堤をつくり、滝沢川と宇土沢の付け替え工事をおこない、地すべり舌端部の堤防を築造した。昭和三十四年四月地すべり防止区域に指定され、主に集水井による地下水の水抜きやくい打ち込みで土塊を固定するなどの対策がすすめられた。