共和村には名刹(めいさつ)四寺がある。寺子屋師匠も名実ともに寺の住職が中心であった。天照寺の倉石樵翁(しょうおう)は幕末の人、小松原中組に「筆塾」と刻んだ塚がある。光林寺の米倉学典は漢籍に精通し、西沢念我は仏教学・詩文・和歌にすぐれ、門下生一四九人という。学典・念我の筆塚は光林寺大門のそばにある。玄峰院の禅明(ぜんみょう)は宝暦十四年(一七六四)から約三七年間寺子屋を開いていた。そのあと実厳(じつがん)・大郭(たいかく)・大祐(たいゆう)と代々漢籍を中心に寺子屋をつづけていた。観照寺では江戸時代初期から幕末まで約二〇〇年間、鎫栄(ばんえい)・光観・日鎫など師匠の名をつらねている。僧侶以外では、小松原伊勢社神官の庄田大膳(しょうだたいぜん)は手習い師匠、境内に筆塚がある。原田覚之丞は俳句・漢学・和算にすぐれ、幕末に門弟が二百余人いたという。小山束(つかさ)は漢籍・詩作にすぐれ子弟の教育にあたり、小松原犀口に碑がある。吉岡善左衛門の筆塚は元蟠竜(ばんりゅう)学校北側に建っている。