昭和二十年(一九四五)八月の終戦時前後には、純農村の共和村も移住者でにぎわった。共和地区には集団疎開児童の割り当てはなかった。親戚・知人を頼って共和国民学校に転入した児童は初等科一八三人、高等科一九人、計二〇二人(昭和二十年九月現在)。平成十年(一九九八)度の共和小学校児童数に匹敵する数である。また、小学校の校舎には工員や兵隊が駐屯していた。日本航空機工業会社が体操場を工場に、二教室を工員の宿舎にしていた。捷第三六三九五部隊五二〇人は南校舎の一三教室を、海軍部隊二〇〇人は高等科教室と文庫室を使用していた。これらの工員や兵隊は食べ物をほしがっていたという